とあるコンピューター雑誌の記事をみていて、不思議なことに気付かされる。パソコンのGUI(グラフィックユーザーインターフェース)について。GUIって、簡単に言うとアイコンとかポインタとか、文字としてのプログラミングじゃなく、「絵」でコンピュータを操作する、その「絵」のこと。
コンピュータを直接的に操作するために、GUIにはいろいろな“概念”設計がされていて、その中でもコンピュータを操る画面上に”深さ”を持った「仮想現実世界」を構築するものは少なくない。そもそも、普段慣れ親しんでいる「ファイル」−「フォルダ」という構成も、“深さ”を持った層構造になってますよね。つまりコンピュータ(の画面)上に僕たちがイメージしやすい「仮想空間」を作り上げることで、GUIは成立しているのです。(ここでの話の本質とは関係ないけども、GUIが仮想空間をつくるのではなく、仮想空間をつくることでGUIが成立するのです。これはちょっと眼から鱗。)
しかし。しかしだ。ハードディスクに書き込まれるコンピュータ上のデータもこの仮想世界のような重層性をもっているかというと、そうではないのですよ。そんな層構造とは無関係に、実にバラバラに書き込まれていくのです。つまり、見た目と中身が、まったく異なる様相を呈して、僕たちの前に存在しているということです。僕たちが操っている(ように思いこんでいる)画面というのは、ハードディスクに記憶されているデータの並びとはまったく関係がないといっていい。
これってちょっと怖いことだなぁと思ったり。GUIというものは、データを操作する方法論としては問題ない(事実これほどまで普及しているのだから)けれど、データそのものの表現方法としては欠陥だらけということです。データって、ゴーストみたいに実体のないものですからね。
コンピュータはよく「道具」に例えられるけれど、メディア・アーティストのジョン・マエダはコンピューターは「素材だ」と言いました。その意味がちょっと分かった気がします。
本文とはあまり関係がない写真(机が狭かったのでPowerBookを立て置きに やってみると意外に悪くない)
ここからちょっと話は飛躍しますが、こういうことって、実は普段の生活の中でも結構起こっている気がするのです。現実の空間って、実はデータのような“ゴースト性”を持ってるんじゃないかと思うのです。
空間とヒトを繋ぐものを考えると、やっぱり“視覚”の存在は大きい。目に見えている風景そのものが、実世界のGUIだとも言えそうです。「私」が“こう”動くと、見えている風景も“こう”動くわけです。まさにインタラクティブな関係。
建築でも、それが外部であれ内部であれ、目に見えているサーフェス(表面)のレイアウト(配置)は、それを見る人感じる人にとっての「インターフェース」=「見ている自分と建築空間との境界面」であるはず。だから、そのレイアウトの変化は、空間の質を(ほぼ)ダイレクトに支配してしまっていると言えなくもない。
僕は嘘つきなデザインはしたくないのです。“私は今ここにいる”って、確かに実感できるとか、簡単なようで結構難しいと思うのですよ、このご時世。モノの使い心地と機能に、ある種の一体感があるっていうのもなかなかない。「名は体を表す」よろしく「体は実を表す」でいきたいと、そう思ったのです。