“手触り”ではなくて”目触り(メザワリ)”っていうものが、確実に存在してると思う。
ボクたちはきっと、そこにあるモノを手で触ってそのカタチや感触を確かめるように、そこにあるモノを“視覚的に”触って感触やカタチを確かめて味わって楽しんでいる。感覚としては視線の先にマジックハンドがついていて、それで見ている対象を触って感触を確かめる感じ。そうして手に入れた感触を、行為や行動や動作に反映させたりさせなかったりしているはずだ。
建築のカタチを考えるとき、特に最近の傾向として、「スッと建ってる感じ」とか、「ヌルッとしたファサード」とか、「ザラッとした感じ」みたいに形容することが多い。とくに「ヌルッとした」はよく使ってる気がする。最近多い非ユークリッド幾何学的な3次元曲面を多用した未来派建築の類はたいていヌルッとしてるから。ちょっと考えてみると、ここで挙がってる言葉は本来、触覚=手触りでわかるモノの表面の状態を表す言葉だ。それを見た目の表現として転用している。
視覚とは従来「止まったもの」として考えられがちだけど、そうではない。「舐め回すように見る」とか「なでるように見る」なんていう表現があるように、立ち止まっていても視点は一定ではない。これまでただ「見えている」と思っていたものも、じつはすべて「見ている」んじゃないかと。そして、動きながらものを見る(動きの中にものを見る)ことで、そのカタチの抵抗感や摩擦力みたいなものを感じ取っているとしたら、それはきっと手触りと同じようなものだ。視覚で楽しむカタチや表面の感触。だから目触り。
いつかどこかであった隈研吾の講演会で聞いた「建築の肌触り」という言葉を思い出した。
そのときは確か“Great(Bamboo)Wall”(
AQUOSのCMで“竹と光の家”として出てるあれ)の話をしていた。そのときはまぁ素材の手触りの話なのかなぁと思ってたけど、なるほど触覚だけでないところまでこの言葉は拡張できる。なんだかボクたちの持ってる感覚を“五感”として5つに分けてしまうことが本当なのか、怪しくなってくる。
抵抗感や手応えがある方がいいとかそういう問題ではない。サラサラ流れるのもよい。これこそ「Haptic」な感覚だなぁと、現在進行中の住宅設計の立面を描きながらフト思ったこと。
昨日はまた考え事をしながら机に突っ伏して寝てしまった。風邪引かないように気をつけないと…。