それまでは、音楽聴きながら自転車に乗ったり街を歩いたりすることは滅多になかった。耳がふさがることに少なからず恐怖感があったし、その恐怖感はその場所の音を聞き取れないことでその場所の空気感や意味を取りこぼしてしまいそうな感覚があったからだ。
iPodを買ってから、ちょくちょく音楽を聴きながら出かけるようになった。で、気付いたんだけど、音楽を聴きながら見る都市っていうのは、また全く違った環境として僕の前に立ち現れてくるみたいだ。それは単に一つの感覚を断ち切ってしまう、ということとはちょっと違う。ビッグビートが刻むリズムに合わせて歩くことは、確かにそこにあるいくつかの情報を取りこぼすということなんだろうけども、いつもとはちょっと違った都市像を提供してくれる。
歩くという行為は、足裏から伝わる感覚や目に見える景色だけを頼りにしているのではない。僕たちは環境に満ちているさまざまな情報を、視角・聴覚・触覚・嗅覚によってフルに利用して歩いているのだ。それぞれの感覚は独立したものではなくて、常に関係し、連続し、なおかつ不可分である。だから、聴覚という感覚を普段とは違ったものに入れ替えてしまうことによって、視角や嗅覚や触覚で感じるものもかわってしまう。
ギブソンや佐々木正人が論じるアフォーダンスの理論は、実は私たちのあらゆる行為は環境が提供してくれる意味(=アフォーダンス)に人間が何とか適応しようとしたからこそ可能だと説明する。アフォーダンスについての言説を眺めていると、自分の身体がいつも何気なく行っていることの無限の潜在的可能性に気付いて震撼する。僕たちはなんと豊かなで複雑な環境を与えられて生きているのだろうと。
見慣れた風景にちょっとした感覚のズレを持ち込むと、世界はまるでかわって見える。それは現実世界がかわったのではなくて、環境の持つさまざまな意味の受け取り方が変わったということ。
研究中、ふと、思い出したこと。コーネリアスの強烈なステレオ感を感じながら殴り書き。